「AIミコと十係」(解体屋)

 

  第一章、本土

 

     1

 

埃っぽくて、薄暗いじめじめとした室内。

 ルーレットの上を生首がコロコロと転がっている。

 コロコロ、コロコロ。なんとかってグループの曲の詞のキラキラ、キラキラ、みたいな調子で。

 生首は暗い照明の中で、どす黒いというか、どす赤い血をポタリポタリポタリとルーレット板の目の上に落としながら、だんだんと速度を落としていく。

 でも、止まりそうになると、また私が回すので、ほぼ永遠と思えるくらい長い時間の中を回転し続けている。

 生首は女の物だ。長い黒髪が、血でべったりと顔と頭の周囲に張り付いている。

 目は黒髪で良く見えないが、長いまっすぐなまつ毛を生やして、ガッと見開いている。

 鼻は特徴がないから略して、口に行こう。

 口は悔しそうに歪んでいる。黒髪の間から、真っ赤な口紅が見える。それが、回転するたびにルーレットの目にくっつくので、今はほぼない。

 女の名前は、ひとで(とりあえず)。さっき、別の場所で竹中が殺した女だ。私は解体屋。イチロウとたまに呼ばれる。今回は竹中に解体を頼まれた。

 竹中が何故、ひとでを殺したかは解らない。気の短い奴だから――実際、ダークウエブで私に移動する場所を教えて、解体を頼むときも、私がちょっと聞きなおすと、すぐに苛立って、声を荒げた。それに、「お前なんか」を頻繁に使う。言葉のDVだ。あんな奴こそ始末されてしまえばいいのに――きっと彼女と喧嘩して、あるいは、彼女が逆らって、切れて、殺してしまったのだろう。

 そう。さっき、あんな奴こそ始末されてしまえばいいのに、なんて言ったが、それは失言だ。あいつは大事な依頼主。お金は親がたんまり持っている。それからも上得意になるだろう。

 ところで、私(解体屋)が三鷹のこの古い倉庫――元はルーレットの賭博場だった――に来た時は、ひとではもう死んでいた。正確には、古い倉庫の傍の草原の中にいたのだが。私がここに移動したのだが。まあ、それは別にどうでも良いことだ。この倉庫に竹中のゲソ懇が残らないというだけのことだ。

 話を戻そう。ひとではもう死んでいたから、首を電動ノコギリでガガガガと解体した時も、血がドバーーっと出ることはなかった。手や足を電動ノコギリで切断してやった時も、じんわりとしか出なかった。肉は、牛肉の固まりに包丁を入れる時のように、サックリとメスが入ったのに。

 

 ま、それは良い。私は解体屋なんだから、ブシューーと血の吹き出すような、首筋のゾクゾクするシーンは我慢しなければならない。

 その代り、生首をルーレットで転がして、愛でているのだが。

 さあ、そろそろお遊びもお終いだ。このバラバラにした女の遺体を、それこそ、バラバラの場所に捨てなければならない。さらば、麗しの生首よ、ってところだ。

 私(解体屋)は、それぞれのパーツをそれぞれのビニール袋に入れた。床の血はそのままだ。ここ、もしくは、この近くで殺しがあった証拠は残さねばならない。

 それが依頼主の要望だ。なぜかは解らない。おそらく、女からストーカーまがいのことをされていて、殺してしまった。で、その女が死んだということを、その家族に知らしめるとか、そんな理由だろう。

 あるいは、その逆か。 ま、どっちでも良い。私(解体屋)には関係ない。

 

    2

 

 血まみれの生首や手足や胴体が袋詰めされたことで、少し血の匂いが収まった。

 すると、急に空腹だったのに気が着いた。

 机がないので、ルーレットの端に、パスタセットと紙皿を乗せた。椅子は壊れかけのがあったので、座った。

 ビニール袋から紙の皿を出して、袋入りの明太子ソースを黄色い茹でパスタの上に、ドロリと絞り出した。

 コンビニで買ったものだ。そこソースが大好きなのだ。トロリとして、ツブツブの浮き立つソースが、黄色いパスタにまとわりついて、絡まっていく。

 私(解体屋)は、ゆっくりと、プラスチックのフォークにそのパスタを巻き付けて、口いっぱいよりは少し少な目の量を口にそろりと入れた。現場を汚してはいけない。

 紙皿ごと回収するにしても、周囲に少しはソースが飛び散るだろうから、埃で汚れてはいるビニールクロス――現場に落ちていた――をルーレットの上に置いた。これごと回収すれば、周囲に飛び散った明太子ソースは回収されるだろう。

 私(解体屋)は、プチプチする明太子の食感と、とろりと舌にまとわりつくソースの冷たい食感と、アルデンテに茹でられたパスタの食感をゆっくりと味わって、噛みしめていった。

 依頼主君、ありがとう。こんな極上の瞬間を用意してくれて。おまけに、報酬まではずんでくれて。君は天使だ。

 そうだ。天使君に、お礼の印に、心臓と天使の羽のオブジェをおいていこう。

 そう思いついて、いつも持っているオブジェを袋から取り出して始末しようと思っていた心臓の横に置いた。

 心臓一つ置くくらい、許してくれるだろう。普通、死亡推定時刻は、まずは直腸温度。直腸がなければ、顎の関節などの硬直具合。約二時間で顎の筋肉の硬直は始まる。それも、今回はない。内臓があれば、腐敗菌が増殖し、膨らみ具合で一定の目安になる。しかしそれは、日にち単位だ。心臓があったくらいで、死亡推定時刻は出せない。

 おまけに、バラバラに捨てた腕などから、硬直具合を出したとしても、その時間、犯人はすでに、この場所にいない。殺してすぐに港へ行き、すでに猪島行のフェリーに乗ったと、スマホで言っていた。

 おまけに、バラバラにする際、私(解体屋)は念入りに間接にメスを入れておいたので、検視官は困るだろう。特定ができない。

 死亡推定時刻を出すのに役に立つには、これから私(解体屋)が起動する、被害者のスマホの時刻のみだ。これは、依頼者も置くのをOKしてくれた。これから私が起動するということは、その時間――今午後十時だが――まで犯人はここにいたと、警察は読むだろうから。

 まあ、被害者と犯人のメールなどは残ってしまっているが、それはしょうがない。

 スマホを起動して、今から心臓を映し始めた時間、依頼主の竹中は船の中だし。

 私は、ふと、床に置いてある文庫本に目をやった。一ページが開いてあった。

 『ひとでちゃんに殺される』という文庫本。ホラーだ。一番良く覚えているのは、地下鉄のドアに挟まれて、首がメリメリとちぎれるシーン。

「これからさきも、私にはネーだろうな」

 そこは諦めた。大人だから諦めるしかない。

 私は、心臓以外をカートに入れ、被害者の服とカバンは残して、ゆっくりと倉庫を出た。

 いや、その前、被害者の服を見た時に思い出したことがある。

 被害者の服は、制服だった。この近くの。ということは、まだ高校生か。

ま、それはどうでも良い。問題は、私が依頼者の小学校の時の同級生だったことだ。

 警察は、置かれた被害者のスマホのメールなどから、依頼者を割り出すだろう。そしたら、幅広く捜査をしていって、小学校時代の友達にまで捜査の手を広げはしないだろうか?

 でも、スマホをここに放置して、録画するのは、依頼者の依頼だし。内容を削除しても、復元したら、内容はすぐ判ってしまうだろうし。

 いや、小学校の友達にまでは捜査の手は広げないだろう。大体、依頼者が解ったところで、本星だと決めつけるだろうし。いくら、アリバイ工作をしても、日本の警察は、動機から捜査を進めるだろうし。

 まあ、私が解体屋で、小学校の時の同級生だとまでは、調べないだろう。そのせいで、依頼人のプロフィールをいくつか知っているのだが。

 私(解体屋)は、被害者の制服をみて、可愛そうに、と思っただけで、現場を後にした。

「私にも人並みの感情はあるんだな」と呟きながら。

 

 

       3

 

 

一時間後。同日午後十一時。

 十係のミヤビ警部補は、タブレットのAIミコ警部補を抱えて、吉祥寺と三鷹の境にあるXX神社に臨場していた。

 二人は西東京を管轄する吉祥寺分署。通称十係のメンバーだ。

 ミヤビ警部補は二十九歳。ほぼノーメイクで、中の上の顔。スタイルはモデル並。つまり、胸が超薄い。背は百六十だから、モデルよりは少し低い。

 AIミコ警部補は、十四歳の設定。初音ミクに似ている。似せて作られたから。他の特徴は、口が悪い。警察のビッグデータにアクセスできる。

 十係にはほかに、丸餅警部とか、有象無象の人間がいるが、並べきれないので、カット。主役クラスはこの三人だけ。おっと他にAI警察犬のハルとAI科捜研のジュンがいる。

 他に、スーパーバイザーとして、ミヤビの恋人の任一郎や、十四歳の鬼貫少年がいる。任一郎は万年医師国家試験落第組だが、医学には強い。なので、医学関係の事件の時は、相談する。

鬼貫少年は、祖父母が警察庁の局長であったし、おまけに大金持ちなので、県をまたぐ時など、協力を仰ぐ。ついでに、彼は三千冊のミステリーを読んでいるので、ヒントをくれる。

この二人はリモートで参加。

他には所轄の刑事と協力して、事件を解決する。

で、事件に戻る。十係に第一報が入ったのが、十分前。三鷹のいくつかの神社のゴミ箱や賽銭箱に、切断された遺体が入れられているというものだった。

早速ミヤビは、タブレットのミコを連れて、第一に遺体が発見された、XX神社に臨場した。丸餅警部はおいおい臨場する予定だった。

十月。まだ生暖かい風が吹き抜けていく。木の葉がざわざわと不気味な音を立てる。

黒のピッタリしたスーツのミヤビは、向こうから、低いお経のような声が近づいてくるのを聞いた。

最初は、ぶつぶつくらいで、良く聞こえなかった。

ミヤビは耳を澄ます。

すると、次のように聞こえた。

「ギャーていぎゃーてい、ハラソウギャーテイ。オンリーソワカ。ギャーテイ、ギャーテイ、ハラソウギャーテイ。オンリーソワカ

ミヤビは比較的近くまで自分たちを迎えに来てくれたカスガ警部補に、「あれは何?」と聞いた。

「ああ。あれですか。若林警部補です。唱えているのは、密教の経文。いつも唱えているんです。しいて言えば密教病とでも言いますか」

カスガ警部補が、手を組み合わせながら近づいてくる山伏姿の刑事を指した。

若林警部補という、山伏姿の刑事は、一心に密教の経文を唱え、山伏姿の和服の着物の裾を風になびかせながら、手には錫杖みたいなものをもっていて、時々じゃらんと鳴らしていた。背は中肉中背で、顔も髭などのない普通の醤油顔だが、頭が藁の鉢巻で、後ろに髪を束ねている姿があまりにも印象的で、目鼻立は詳しくは解らなかった。例えば二重とか、鼻が横に広がっているとか、そういう印象は解らない。

二人があんぐりと、口を開いていると、山伏姿の若林警部補が、月光の中をそろりそろりと近づいてきて、ゆっくりと声をかけてきた。

「そこのおなご。そう、そこの薄い胸のおなご。そこもとには、黒い女の霊がついておる。呪縛霊じゃ。それがしがお祓いしてやるから、うずくまりたまえ。それと、そのタブレットの中のおなごも同じじゃ。霊がついておる。早速お祓いを」

若林警部補が、天を仰いで、両手を上げ、錫杖を鳴らした。

「ふむ。ちょこざいな――。おぬしなど、一遍殺せ。一遍殺しやがれ――。吾輩も警部補じゃ――」

タブレットの中のミコがいきなり甲高い叫び声を上げた。

すると、若林警部補が、はっと真顔に戻って、ひざまづいた。

「おお、これは十係のミコ警部補とミヤビ警部補ではござらんか。失礼いたしました――」

「ふむ。面倒くさい奴じゃ」

 ミコはさらりと流して、でも、まだ憤懣が残っていたのか、軽口をたたいた。

三鷹署は、皆こんな奴だらけなのか。みんなこんな奴だったら、横に並べて、皆殺しにしてやるぞ――」

すると、カスガ警部補が――彼は、同僚に比べると、まだ外見は普通だった。ちょっと顔が四角いが――、慌ててとりなした。

「いえいえ。病気系なのは、あいつだけなので、ご安心を」

「左様か。安心した。で、状況はどうなっておるのじゃ?」

 本当に安心したのか、良く解らないが、一応ミコが先に話を進めた。

 

 

     

 

    4

 

「まず三十分前に、この寺の住職が犬の鳴き声が異常に騒がしいのに気が付いたんです。で、不審に思って、お堂の前まで来てみると、賽銭箱の下が少しずれていて、黒いビニール袋をかぶせた細長い脚みたいな物が飛び出していた。それを犬が齧って、ビニールが破れ、生臭い匂いがしていたんです」

「ふむ。遺棄した人間が、慌てていて、良く閉めなかったんんだな」

 ミコが感想を挟んだ。

「そうでしょうね。それで、賽銭箱をずらしてみると、股関節の下から切断された脚が二本と、頭があった。で、慌てて百十番したわけで。それから十分もしないうちに、まず鑑識が到着して、遺体の一部だと確認し、他の部分は近くの寺の賽銭箱の中に入れられているかも、と思い、近くの寺に電話して、捜索してもらった。すると、XX寺にに胴体、XX寺には腕が二本、いずれも、賽銭箱の中、黒いビニールに入れられて、隠してあった。」

「ふむ。死体遺棄者は、当分先にならないと、発見されないと予想して、そんなところに入れたのだろうな」

 またもミコが推理した。

「で、早速、警察側は切断場所はどこだろうと考え、AI警察犬のハルを使って調べました。すると、XX寺近くの廃屋、昔のルーレットの賭博場のあった所でした。そこに心臓と天使の羽のオブジェ(石膏の羽)が置かれていました。おっと、あと制服とカバンも」

「なるほど」

「さらに、出血量が少なかったので、殺害場所をハルに捜索させたところ、廃屋から三百メートルくらい離れた空き地に大量の血がありました。ナイフもあったので、殺害場所はそこだと特定しました。参考までに、指紋は拭かれていました。今、切断場所、殺害場所、遺棄場所に分かれて鑑識の捜査をしているところです」

「そうですか。で、聞きたいことがあります」

 ミヤビはカスガ警部補に聞いた。

「切断場所にカバンがあったのなら、身分証なども入っていたのでは?」

「はい。今、若林警部補が、そっちに向かっています。もう現場について、捜索もかなり進んで若林警部補にも報告が行っていると思うので、電話して、聞いてみます」

 カスガ警部補は電話をした。

 若林警部補は、さっき、同僚の刑事に呼ばれて、この現場から離れてしまっていた。錫杖を鳴らしながら。

 すぐに若林警部補は出た。

「ほーい。こちら若林でござる。その寺からほぼ五分の廃屋のルーレット場に来ているでござる。ここが切断場所に違いないでしょうな。汚れたフローリングの床に血が大量に流れておるぞ。と言っても、刺した時ほど大量ではござらぬ。切断した時の出血じゃ。ギャーテイ、ギャーテイ」

 若林警部補は一息ついた。

 若林警部補は、一息つくごとに、ギャーテイ、ギャーテイを入れる癖があるようだ。

「それで?」

 ミコが急かした。

「それで、ここには心臓と、塑像のオブジェの天使の羽があるぞ。中は十畳ほどのがらんとした空間だ。まだ電気は通じておったようじゃ。心臓は、残されたルーレット台の上に置かれておった。で、ここで血液が二種類発見された。今回からリニューアルして、血液検査もできるようになったAI科捜研のジュンの鑑定じゃ。心臓からはA型。床に落ちていた肉片――これは微物検査でジュンが発見したものだが――その肉片からはB型の血液が発見された。ハルの調べで、殺害場所はここから三百メートルの空き地と解っておるから、そこから服について運ばれたものじゃろう。ギャーテイ、ギャーテイ」

「つまり、きっと犯人と被害者は空地で喧嘩して、犯人の肉片が被害者の服に付いた。そこで、犯人は被害者を刺して殺した。で、遺体がそこから、犯人もしくは、べつじんの手によって、廃屋へ運ばれたっつうことね。肉片も付着して運ばれた」

「そうじゃ。因みに被害者の制服は、近くのXX中学のもので、切断場所に置いてあった。ギャーテイ。さっきも言ったか」

「成ほど。で、廃屋にスマホもあったとか」

「そうじゃ。被害者のスマホがあって、スマホの持ち主の名前は、秋野ひとで。イチローという男と頻繁にやりとりをしておった。ギャーテイ、ギャーテイ」

「で、イチローに電話してみたの?」

「おおしたとも。」

「そしたら?」

「そしたら、八時には八丈島行きのフェリーの中にいたと言いおった。こっちが死亡推定時刻はも言わぬうちにじゃ。ギャーテイ、ギャーテイ」

「つまり、死亡推定時刻は八時頃だと言いたいんだね。検視官の捜査では」

「そうじゃ。遺体は切断されておったが、直腸はされていなかったので、腸の奥に体温計を入れて、検視官が調べて、死亡推定時刻は、七時から九時と出した。ギャーテイ、ギャーテイ」

「そうか。じゃあ、犯人と切断者は違うってことだな。犯人は七時に殺して、切断者に依頼して、自分は、神奈川あたりの港に移動して、フェリーに乗った。そして、切断者は遺体を廃屋に運んで切断して、十時にスマホをオンにした。ダークウエブに解体屋というのがちょっと顔を覗かせているので、それだろう」

「ギャーテイ、ギャーテイ。その通りじゃろう」

「で、その先は? 被害者の名前とか」

 ミコが先を急がせた。

「そうじゃ。被害者の免許証があった。それによると、名前は赤坂ひとで。二十一歳。捨てられていた制服は、この近くのXX中学のせいふくじゃった。刑事たちに調べさせたところ」

「しかし、その年じゃあ、被害者はとうに卒業しているのでは? どういうこと?」

 ミヤビは聞いた。

「いわゆるイメクラと言う奴だったんじゃねえのかのう。ギャーテー」

「成るほど。キャバ嬢ならぬ、イメクラ(?)店の店員ねえ。イメージクラブかな? 制服なんかを着て、サービスをする」

「ギャーテー。多分、イチロウはお客だったんじゃろうと思って、この近くのイメクラの店を当たらせておるが、今のところ該当する店はない。つまり個人的に趣味」

「成るほど」

 

「おおそうだ。このたび新しいAI科捜研ジュン二号を投入した。レントゲンとエコーが装着されておる。それでざっと診断したところ、被害者は妊娠しておったと、検視官が。ギャーテー」

「ほうほう。科捜研の進歩のたまもの。なるほど。子供ができちゃっていたのか。それで、喧嘩して、イチローは殺してしまったと」

「ギャーテー。それと、イチローは追うんでしょうなあ。八丈島に渡ってしまったようですが」

「ふん。僕たちの偶然ながら、明日からオフだから、八丈島へいくぜ」

「ミコが叫んだ」

「エエーー?休みなのにい」

 ミヤビは文句を言ったが、「ミコが言い出したら聞かないし、決まったようなもんだし」とブータレたが、「しょうがないね」と自分を納得させた。

「ついでながら、それがしも八丈島へ渡るでござるギャーテー。この三鷹の現場は、カスガと他の捜査員に任せて、大丈夫であるし。ギャーテー」

 若林がじゃらんと錫杖を鳴らした。

「クソー、面倒くせ―。僕知らね――」

 ミコがOKの印にウインクした。

 口では、一緒に行くのは面倒クセーと言っている割には、面白がっているらしい。

 

 

 

   第二章、島

 

    1

 

 ポターリ、ポターリ。

 薄暗い部屋の天井から、重い血が垂れてきている。

 天井が明り取りの簀の子(すのこ)になっているのか、その隙間から血は垂れている。

 ポターリ、ポターリ。

 長い髪が簀の子の隙間から垂れ下がっている。結構長くはみ出している、

 二階に(多分ここは一階だろうから)女がいるのか? それも殺されて。

 しとどに血を流して。その血が、髪を伝わって、俺の上に落ちているのだ。

 ということは、二階の床は殺された女のどんよりした血で、しとどに濡れているのだろうか。

 二階からかすかな光が差している。簀の子の間から漏れている。柔らかい光だ。

 蛍光灯の光ではない。裸電球、それも、布で覆われたような。

 そうだ。フロアースタンドの光だ。それも、倒れたフロアースタンドだ。横向きの布を通した光だ。

 つうことは、フロアースタンドは血で湿っているんだ。ヤバい。このままでは通電して火が着くかも。

 ポターリン。ポターリン。血は止まらない。

 俺はもがいたが、何か重たい重力のような物にからめとられて、両手が思うように動かない。

 ポターリン、ポターリン。

 よく見ると、天井からの黒髪が少しずつ伸びている。

 どこからか、生暖かい風が吹き込んで、重いのにゆっくりゆっくり揺れて、伸びている。

 天井は低い。もしかしたら、机の下に押し込められたのかも。暗くて良く解らないが、それくらい、天井、いや天板は低い。

 きっと机の天板が簀の子なのだろう。

 ヤバい。伸びている黒髪が、意志を持っている物のように、俺の首に巻き付いてくる。

「止めろ――!変な悪戯は、止めてくれ――!」

 俺は叫んだ。でも、黒髪はするすると伸びて、喉に巻き付く。冷たい。血で濡れているから、ぞっとするくらい冷たい。

「助けてくれ――!」

 俺は、両手で、首に巻き付く、蛇のような黒髪をほどこうとするが、ダメだ。

 黒髪は、ギュルギュルと徐々に締め付けてくる。手が動かない。

「助けてくれ――」

 叫ぼうにも喉がキリキリと締め上げられ、声が出ない。

 そればかりか、息もできない。

 ヒューヒューと隙間風のような息がかろうじて通るだけ。

 息が苦しい。

 このまま絞殺されるのか。

「助けて――」

「ホホホホ。苦しんで死ぬが良いわ」

 天板の上から、恨めしそうな声が降ってきた。

「誰だ。お願いだから、助けて――」

「ホッホッホッホ。遅いわ。ホホホ」

「お願いだ――」

 思い切って声を上げて、俺(イチロー)は木の床の上で飛び起きた。バンガローだった。

「ホホホ」はケータイの呼び出し音だった。

 それで、思い出した。俺は八丈島にフェリーできて、キャンプ場のバンガローに黙ってもぐりこんでいたんだった。

 島はおおらか。野菜も無人販売。缶からが置いてあるだけだ。

 バンガローも鍵がなく、缶からがおいてあるだけ。出るときに金を入れればよいということだろう。

「ああ、死ぬかと思った」

 やっと息を吹き返して、ケータイを手に取った。

 俺(イチロー)は、ようやく夢から現実に引き戻られてくれたケータイに出た。

 

    2

 

イチローだよなあ」

 向こうからはぶしつけな呼びかけの声がした。

 朝、まだ早い。十月の八丈島はまだ蒸し暑い。その中に低い声が響く。

「だけど、そっちは?」

「忘れたとは言わせないぜ。ひとで。ひとでの兄だ」

「嘘。どうやって、俺の番号を?」

「妹から聞かされていた。くりかえし言うが、お前に殺された妹からだ」

 俺(イチロー)はウッと、低くうめいて、言葉に詰まった。

「どうして、それを? 解体屋しか知らないはずだ」

 低く、自分にしか聞こえないような声で、言葉を押し出すと、向こうは、すらすらと答えてきた。

「実は、昨日、夕方、妹がイチローに会いに行くと言って出た。十一時になっても帰ってこないので、妹のスマホGPSをたどって行ったら、古い倉庫で、妹は解体されていた。妹は美人で、心配だから、GPSを入れているから、すぐに解った。だが、残念なことにすでに解体されていたから、どうしようもなかった。殺したのはお前だろう。つうか、何故殺したんだ。おまけに、解体屋まで頼んだんだ?」

 相手の声は、思った以上に落ち着いている。怒りたい気持ちを必死に抑えているのだろう、少し震えが入るが、それにしても冷静だ。不気味だ。

「待ってくれ。これにはわけがあるんだ」

「どんな?」

「だから、俺の子供を妊娠したんで、産むとか言ってくれちゃったんで、喧嘩したんだ。そしたら、弾みで。ナイフは向こうが持ち出したんだぜ。だから、わざとやったわけじゃないんだ。本当なんだ。信じてくれ」

 必死で言い訳すると、少し間があって、フフフと笑いそうな声がかえってきた。

「まあ、『誰がそんなことを信じるか』と言いたいが、気の短いお前のことだから、信じなくもない。おまけに、妹には性格に難があったのは知っている」

 ひとでの兄は、トーヤという名で、イチローと同じ二十八歳だと、ひとでから聞いていた。だから、お前と呼び捨てにされても、まあ、当然なんだが、一面識もない奴に呼び捨てにされたので、イチローはムカッときた。

「ふん。そうなんだ。あいつの性格に難があったんだ。ひとでも悪い奴なんだ。絶対に子供は嫌だと言っていたのに、勝手に妊娠して、絶対に産むとか言い出して。おまけに、レイプされた映像があるから、それを公表されたくなかったら、一千万出せとか言い出して。絶対のそんなのは、フェイク映像だ」

「まあな。ひとでのやり口は俺も解っていた。俺に対しても同じことをしたから。」

「どういうことだ?」

「だからあ、俺の冷凍精子を勝手に請け出して、人工妊娠して、俺にも、地井と名誉のある立場を脅かされたくなかったら、一千万出せと言いやがった」

「確か、君の家は親が離婚していて、一緒に住んでいないとか」

「そうだ。俺の姓は浜田だ。普通は済んでいる家も違う。こう見えても、俺はIT企業の社長だからな」

「そうか。それなら、俺の気持ちも解るだろう」

「解らない。人工流産させればいいだけのことだ」

「中絶か。俺は勧めたんだぜ。でも拒否されて」

「ふむ。俺の場合は、たまたま回し蹴りがヒットしただけで、問題解決したんだが」

「酷え。俺より酷いえ」

 俺(イチロー)はここぞとばかりに詰った。

 だが、向こうは涼しい声だった。

「俺は、そういう人となりだ。覚えておくが良い」

 俺(イチロー)は背筋が寒くなった。『ひととなり』なんて、難しい言葉をさらりという神経が怖かった。

「ところで」

 向こうが、改まった声を出した。

「何でしょうか?」

 俺(イチロー)は思わず敬語になった。

「中絶を拒否されたからって、ひとでを殺すことはないだろう」

「だから、弾みだって」

 ここぞとばかりに『弾み』に力を入れた。

「そうか。あくまでも弾みで通すなら、それでも良い。こっちにも考えがある」

 今まで以上に冷たい声で答えが返ってきた。

「何だよ。それ、脅かしか?」

 恐る恐る聞き返すと、相変わらずの落ち着いた声が話をつないできた。

「まあ、何とでも言ってくれ。それより、お前は今八丈島だろう。俺も今、フェリーでそっちに向かっている」

 相手が秘密を語るような嬉しそうな口調で囁いてきた。

「どうしてそれを?」 

 俺(イチロー)は心底怖くなった。

「ふむ。刑事たちが大声で話しあっていたんでね。解体された妹の死体、特に頭部と脚のあったXX神社でね」

「こっそり捜査を盗み見ていたのか?」

「ふむ。まあ、そういうことだ。で、それは別にして、これからお前に可愛い妹の復讐にいく」

 相手がドスの聞いた声を押し出した。

「な、何をしようというんだ?」

 俺(イチロー)は恐る恐る聞いた。

「簡単だ。これから、島に上陸したら、何らかの方法で、第三者を殺す。そして、それをお前の犯行にみせかける」

「どうやって?」

「簡単だ。お前の所持品をそばに置く。お前から妹へのプレゼントが沢山あったから。それをもってきた。それらにはたんまりとお前の指紋が付いているに違いない」

「待ってくれ。妹さんのことは、心から謝るよ。だから、これ以上の犯行はしないでくれ」

「ホホホ。だ。俺を普通の人間とみるなよ。復讐は徹底的にやらないと気が済まない性質なんだ」

「そんなあ。これほど、咄嗟にやってしまったことだと言って、謝っているのに」

「ふむ。お前さんは、人を見る目が甘いな。解体屋を選ぶにしても」

「どういうことだ?」

「だから、自己顕示欲の強い解体屋に頼んだのが間違いだったな」

「どういうことだ? バラバラにして海に捨ててくれと頼んだだけなのに。あ、そういえば、さっき、頭と脚の捨てられたXX神社と言ったな。どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。心臓がルーレットの賭博場の廃ビル。頭と脚二本がXX神社の賽銭箱の中」

「そんな、馬鹿な。それじゃあ、発見してくれと言っているようなもんじゃないか。廃屋で十時にスマホを起動してくれとは言ったが。でも、それは、アリバイ工作。まさか、バラバラにした胴体をそんな賽銭箱に入れるなんて?」

「そうさ。馬鹿なほど解体屋は自己顕示欲の強い奴なんだ。それによって、お前さんが犯人として捕まるのが早まろうと、知ったこっちゃない。解体屋の宣伝にもなる」

「クソウ」

「そういうことだから。これから恐怖の復讐が始まる。怖がらせて、最後は、お前も殺すかな。首を洗って待ってろ」

 電話は切れた。

 最後の、『首を洗って待ってろ』なんて、聞きなれない言葉が、妙に怖かった。まだ蒸し暑いのに、背中に冷たい汗がツツツと流れた。

 

 フェリーの中。十係。

 八女島へ向かうフェリーの中。十係は個室にいた。

 参加者は、ミコを抱えてミヤビ、AI警察犬ハル、AI科捜研のジュン。今回は、ジュン2と本チャンの科捜研は参加していない。理由は簡単、八丈島に死体がないから。ジュンもハルも最初は、丸餅警部は、貸すのを渋っていたが、ミコがごねて同行させるのを認めた。

 というのは、三鷹の捜査が大幅に手間取っていたからだ。丸餅警部も、そっちに手を取られて、もし事件が起こったら、後から駆けつけると言っていた。

 若林警部補も、捜査に手間取って、送れるとのことだった。ミヤビは、少し、うっとうしいのが遅れるのぼっとしていた。顔には出さないが。カスが警部補も三鷹に捜査に専従していた。

 ミコは八丈島の巡査の沢村に電話した。

 相手がでると、直ぐに、イチローの犯した罪を掻い摘んで話、「イチローを確保してほしいんだよ」とつたえた。

 イチローの外見は、彼の近所の住民などから聞き出していた。イチローの住所は、ひとでとのLINEの会話にヒントがあった。内の近くのドトールで会おうとか。その内容から、住所を割り出し、近所の住民に聞き込みをして、外見や職業を聞き出した。

「まずは、二十八で、映像会社の社長だとか。ネットにアニメを上げる会社。『うっせーわ』で有名になった、あの業界の会社。外見は、マイケル・クラインが好きだから、上下はマイケル・クラインだろう。痩せていて、眼鏡をかけている。髪は金髪に近い茶色。気が短いらしいから、気を付けろ」

「了解しました。潜伏場所は住民に聞いて、割り出します」

 沢村巡査は、女。二十八だが、声は弱弱しい。

「それから、キャンプ場とか、隠れ家を探してみます」

「お願い。そっちの島々を管轄する警部補もおっつけ行くだろうし」

「了解」

       7

 

 

 俺(イチロー)はひとでの兄の浜田のことを思い出していた。

 浜田の外見は知っていた。ひとでのスマホの待ち受けにあったから。一緒に仲良く映っていた。ロイド眼鏡だが、眼鏡の奥の眼が笑っていない。口元は笑っているのに。

 顔の印象は、細面で、体も兎に角細い(胸までしか映っていなかったが)。漆黒の髪で、長い。肩まである。高そうなブランドの革ジャンの袖を切っている。最近の高級ブランドの流行だ。

 俺(イチロー)は、手が疲れたので、草の上にスマホを置いた。

 妹がフェイク映像を作って、冷凍精子で妊娠して、一千万を要求するのも普通じゃないが、それを、回し蹴りで人工流産させる兄貴も普通じゃない。

 今回、どんな手を使ってくるだろうか。考えたくない。

 とりあえずは逃げなくては。

 向こうが、誰かをどうにかして殺して、その横に自分の持ち物を置いたとしても、その時、自分が島の誰かに会っていれば、自分にアリバイはできる。

 まだ敵はフェリーの中。今のうちに港から一番遠くに逃げねば。それよりも腹が減った。

 幸い、直売所には農産物や魚介がたわわに置かれている。まあ、火を通さないで食べられる物と言ったら、果物くらいだが、我慢しよう。只でいただくのだから。

 俺(イチロー)はよいしょと立ち上がった。

 

        9

 

 

 俺(イチロー)は廃屋の空き家に潜り込んでいた。隣の部屋の声に耳を澄ましていた。

 この廃屋は、島を彷徨っていて、偶然見つけた物だ。ガスも水道も電気も通っていない。周囲は板が張り付けられていて、所々隙間風が入ってくる。床は板敷だが、埃だらけ。

 今はまだ十月で風は生暖かいが、夜になったら、気温が下がるだろう。その時は、藁で編んだむしろがあったので、それでしのぐしかない。

 小さい頃、三鷹へ両親が移住してくる前、埼玉の深谷市、血洗島に住んでいたのでえ、むしろは知っていた。血洗島は冷えが厳しいので、冬の初めなんぞ、友達とかくれんぼをした時、納屋のむしろで寒さをしのいだもんだ。

 ふと、隣から声が聞こえてきたのはその時だった。村人AとBが入ってきたようだ。

 夕方だった。二人はランプを真ん中に置いて、どっこいしょと上がり框に腰を下ろした。

 板壁の隙間からチロチロとランプの光が垣間見える。

「のう、今度の新しい駐在、会(お)うたらおったまげるぞ」

 村人Aが話し始めた。どこの出身か解らないが、訛りがきつい。

「おったまげるって、どないて?」

村人Bが興味ありそうな声で聞き返した。

「それが、きいて、驚くな。二十八だっちゅうことだが、ガリガリに痩せ衰えて、髪はザンバラで、腰まで長く伸ばしていて、九十のバーさんみたいに、老いさらばえて見えるんだと。おまけに、服は新しい制服を拒否して、ボロボロの終戦直後の闇市で買ったみてえらしい」

「何で、そんな、新しい服を拒否しているんじゃ?」

「好きなんだと。貞子が」

「貞子って、ちっと古いがホラー映画のあの貞子かや? 今でも伝説になっていて、髪振り乱して、テレビから現れるっちゅう、あれか?」

「そうじゃ。駐在は貞子はじめ、ホラー映画が大好きで、わざわざ幽霊みたいな制服を着ているんだと。これがコスチュームプレイだと言っているんだと」

「また、変わったおなごが、駐在になったもんじゃのう」

「まあ、そのぐれえ、変わっていなきゃ、こんな離島の駐在になんか、こねーべ」

「はあ。人で不足じゃからのう」

 二人は、声からすると、老人の男らしい。

「そんでのう、貞子、じゃのうて、沢村っちゅうじゃが、そいつが、周囲に公言してはばからないのは、自分は、流人の末裔で、流人の魂が宿っておるんじゃと」

「へえ。わしらみてえに、よそから流れてきたもんとは違うんじゃ」

「そだよう。でな。その貞子みてえに痩せさらばえた駐在は、これまた、怨霊大好きな、剥げ親父の、新庄警部補と付き合うておるんじゃと」

「ほう。八畳島署の警部補かや」

「まあ、そうじゃ。島部統括なんじゃが、便宜上八畳島署と呼んどる。年五十八の剥げ親父じゃと。で、二人は遠距離恋愛じゃと」

「なるほど。怨霊の末裔の娘と、怨霊大好きな禿親父か。ぴったりじゃのう。破れ鍋に綴じ蓋じゃのう」

「さよう。さよう。ぴったりだべ」

 俺(イチロー)は思わず次のようなシーンを連想した。

 どこまでも続く広い晩秋のさむさむしい荒野。ススキが強風に、倒れそうに揺れている。

 その真ん中に腰まであるザンバラ髪を振り乱して、ボロボロの制服をまとったガリガリの九十のバーさん、いや、あだしヶ原の鬼ばばのような駐在――沢村巡査――がいる。

 少し離れて、もう爺さんに片足をつっこんだような、禿茶瓶のこっちもガリガリに痩せた新庄警部補が相対峙している。二人は恋人なのに、なぜか離れて立っている。

 新庄警部補が手を差し伸べて、叫ぶ。

「おお、懐かしの怨霊、沢村巡査よう。何か月ぶりの逢瀬じゃ――。合いたかったぞな――」

 すると、貞子は、元へ、沢村巡査もよわよわしい声で叫び返す。

「ああ、わが愛しい怨霊マニアよ――。よくぞわが怨霊に会いに来てくれたもうた――」

「ダメだ。考えすぎだ」

 俺(イチロー)は思わず頭を振って、妄想を追い払った。

 ふと耳を澄ますと、隣の村人AとBは立ち去った後のようだった。

「あーあ、それにしても腹が減った。リュックの中に、もっと無人販売の物を盗んでくりゃ良かった」

 呟きながら、耳を澄ますと、風に乗って、細――い声が聞こえてきた。

「そこなおのこ、お主は、イチローか――」

 ふと目を回すと、納屋の脇い貞子――元へ――沢村巡査と思われる痩せさらばえた女巡査が立っていた。冥界のそこから響くような低い声だった。

「そうじゃ。いかにも吾輩は、イチローじゃ――」

 と答えそうになって、思わず口を噤んだ。毒されている。さっきの会話に毒されている。

 頭を強く振って、妄想を追い払い、現実に戻った。

(まずい、逮捕しにきたんだ)

イチローなら、尋常に逮捕されたまえ――」

 貞子が髪を振り乱し、敗れた服も振り乱して、手錠をぶり上げて、走ってきた。

「ヤベー。逃げろ――」

 俺(イチロー)は自分の足に命令して、一心にけもの道を走った。崖の上の道だった。

「待て――。逃げると、祟りが落ちるぞ――」

 貞子は、前よりも一層低い声で、叫んで、走り迫ってきた。

 二十八と聞いていたはずなのに、ジョイナーみたいに(古いが)素早い走り方だった。

「ガッシ」

 暫く逃げたが、走り疲れて、速力が落ちて着た途端に、いきなり後ろから、ガッシと肩を掴まれた。爪が鋼鉄のように、鋭く固い。

「止めろ――」

 俺(イチロー)は、思いっきりリュックを振り回した。

 バシンとリュックが貞子に当って、一瞬、肩を掴んでいる怪力が緩んだ。

 しかし、一瞬後には、冥界の力で力を回復したのか、一層強く肩を掴んできた。

 めりめりと食い込みそうな怪力だった。

「止めろ――。テメー―」

 俺(イチロー)は、必死でリュックを振り回した。バシンバシンと、数回、リュックが貞子を直撃した。

 すると、ギリっと肩の肉がもっていかれる激痛があって、怪力が緩んだ。

「何?」

 怪訝に思って、振り向いてみると、貞子がバランスを失って、崖の上を、コロコロと転がりながら落ち始めていた。 

 長く伸びた爪を、あだしヶ原の鬼ばばのように、九の字に曲げながら、木の枝をバキバキと折って、敗れた制服をさらにボロボロにしながら、崖の下まで落ちて行っていた。

「助かった」

 俺(イチロー)は小さく呟いた。肩の肉を持っていかれた跡が、きつく痛んだが、安堵の方が大きかった。

 俺(イチロー)は恐る恐る崖の下まで降りてみた。

 坂道で、枝につかまって、やっとこさ降りた。

 貞子は、髪を振り乱して、顔中髪にして、倒れていたが、幸い息はしていなかった。

「良かった」

 俺(イチロー)は大きな息を吐くと、大急ぎで、枯れ葉を貞子の上にかぶせ、急いでそこを走り去った。肩が痛んで、血が出たが、ハンカチで抑えるくらいしかできなかった。

    8

 

 十係。

 十係と八丈島諸島の所轄の警部補XXは林の中を歩いていた。ハルが駐在所で、沢村巡査の服の匂いを嗅いで、この近くまで案内してきていた。だが、崖の上で匂いが途絶えていた。

 八丈島署の警部補の説明。

                          

「おかしいですねえ。GPSではこの辺にいるはずなんですけどねえ」

 八丈島署の警部補が、がけ下の木の葉のうずたかく積まれている地点を掘り返した。

「あ、いました。沢村巡査です。頭や他の部分からも、すごい出血です。息もしていませんねえ。脈もありません。これは死んでいます。」

「大変だ。死んでいても良いから、とりあえず応急措置を」

 ミコが叫んだ。死んでいても応急措置、とは、何か考えがあるらしい、だが言わない。

 なので、ミヤビは、応急措置をした。頭と腕の出血地点に包帯を巻いた。

「ダメだよ。これくらいじゃあ、息は吹き消さないよ。一応人工呼吸もしてみるっけど」

 ミヤビは、がけ下の足場の悪い地点で、暫く人工呼吸をした。

「ダメだ。息を吹き返さない」

 そこへAI科捜研のジュンが口を出した。

『今回、検視官がいないので、僕が死亡推定時刻などを出します』

 ジュンは沢村にかがみこんだ。

「死亡推定時刻は、ちょっと前。今が昼の一時だから、その時間で間違いないけど、出血が少ないねえ。。まるで生活反応がないみたいだ。言い換えれば、死後突き落とされたみたいだ」

「どういうことだ?」

「僕はAI科捜研で、リニューアルして血液検査もできるようになったから、血液検査を徹底的に行ってみる」

「おう。お願いするぜ」

 ミコがミヤビの腕の中で、男のような声をだした。

「お、新発見だ。なんと、テトロドトキシンが発見されたぜ」

 ジュンが叫んだ。

「ふぐ毒か?」

「だねえ。何時間前に注射されたか解らない。つまり半分死んで、突き落とされて」

 そこまで言いかけた時、ミコが鋭い言葉をかけた。

「言葉に気を付けろ。突き落とした犯人が聞いているかもしれないぞ。もし、半分死んでいたなんて、聞いたら、犯人は、自分の仕業ではないと思うぞ」

「あ、はい。そうでした」

 ジュンが目の所の窓枠に、OK無口と出した。

「血液検査のついでに、血液型も調べてくれ。確か、さっき、死体の所に近寄った時、犯人と争って、微物が被害者の爪の間に挟まっていると言ったが」

「おおそうです。爪の間の微物検査もしました。多分犯人の肉片です。そっちはB型です。沢村巡査もB型です」

「どういうことだ。沢村巡査はイチローを確保に来ていたんだ。ならば、沢村巡査と戦ったのは、イチローということになる。で、皿村巡査はB型。イチロー三鷹の捜査の際に、A型と判明している」

「あのう、それについて」

 AI科捜研のジュンが口をだしかけた。

 それを遮ってミコが言った。

「待て待て。任一郎に聞いてみる」

 早速ミコは任一郎に電話した(電話機能はついている)。あらまししを話した。ついでにリモートで鬼貫少年ともつながっている。

 すると、すぐに任一郎から返事が帰ってきた。

「それは、キメラ血液だよ。腎臓移植すると、たまにそういうことが起こるだ」

「そういうことだそうだ」

 ミコはジュンに向かって告げた。

「だから、そう言おうとしたんですよ。どうも、ミコ警部補は、自分も機械でありながら、他の機械をしたい見る傾向がありますね。良くないですよ」

 ジュンが非難がましい声で抗議した。

「さよか。解った。今後気を付ける。それで、それ以上に、何か言いたいことはないか?」

「ありません。そこまでです」

 ジュンが、他に何があるのか、といたげな声で聞いた。

「そういうことだ。任一郎、もう、他に何か言うことはないか?」

 ミコはジュンを無視して、任一郎に語りかけた。こういうところ、十四歳の設定なので、人の気を推し量る機能はないようだ。もっともジュンも人間ではないが。

 任一郎がおもむろに口を開いた。

「腎臓移植しているってことは、どこかにドナーがいるってことだねえ」

「何が言いたい?」

 ミコがいらいらした声を上げた。

 その時、リモートで参加していた鬼貫少年が口を挟んだ。

「三千冊のミステリーを読んでいると、色んな本があってね。中山七里の中に、こんなのがある。ネタバレになるから、タイトルは言わないけどね。腎臓や眼球や、心臓を移植された人が、次々に殺されるっていう事件がある。で、よーく調べたら、同じ人の臓器を移植していた。で、それらの、レシピエント、つまり移植された人たちが、大酒を飲むとか、ギャンブルにはまるとか、自堕落な生活をしていた」

「解った。それ以上言うな」

 ミコが最後を引き取った。ミコは最後に自分の意見を言う癖がある。

「つまり、どこかに、イチローに腎臓をくれたドナーがいる。そいつがイチローを尾行した。普通は、病院は秘密にするけど、何とかしてそのドナーはレシピエントを発見して、尾行していた。そして、殺人を嗅ぎ付けた。殺人をするような人だから、気が短い。前にも色んな傷害事件を起こしていたとか」

 その時、少年が口を挟んだ。

「でも、今回、警察はマスコミ発表していません。そのドナーだって、、ピンポイントで殺害現場をみつけることはできませんよ」

 すると、ミコが自信を持って言った。

「それはそれ。警察官の中にいたとか。あの三鷹の現場にいたか、あるいは、三鷹の現場の見学者の中にいたとか。」

「解ったいずれにしても、イチローは殺した女の兄からも脅迫を受けていた。殺すとまではいかないが、それ以上の苦しみを与えると。つまり冤罪の加害者にすると」

 所轄のXX警部補が口を挟んで、続けた。

「つまりだ。イチローは被害者の兄と、ドナーの二人から命を狙われているわけだ」

「そうだ。ということで、いずれにしても、二人のスーパーバイザーにはありがとう。少年には、また協力をお願いするかもしれないけど」

 ミコがタブレットの中で片手を上げた。

「いつでもどうぞ」

 リモートの向こうから、二人が挨拶を返してよこした。

 

 

 

 

 

 

 

(この後、猪島のシーンに続く)